唐突ですが、実はここ数ヶ月「port Fは何をすべきなのか=Goal」を考えていたのです。
何度も思いを巡らせて、最終的に辿り着いた答えは2つしかありませんでした。
1. 日本でモータースポーツを“見る人”を増やす
2. 日本でモータースポーツを“やる人”を増やす
まず、「なぜ=Why」、そう思ったのか。
これには理由がない。
あえて言うなら、ものすごい頭脳を持った人々が、一国を動かせるほどのお金を持った大企業が、想像もしないような技術やアイデアをひねり出し、超一流アスリートが心技体を鍛える努力を惜しまず、サーキットでは、まるでジェットコースターに乗りながら囲碁をさすような戦いを繰り広げる。
「こんなにおもしろいものを人が知らないのはもったいない、やらなくなるのはもったいない」と言ったところでしょうか。
そして「どうやって=How」。我々はどのように前述の「Goal」に到達したらいいのか。
これは、かなりとても長いストーリーになりますし、秘密の部分も多いし、何より恥ずかしながら未完成な部分も多いです。
その未完成の「How」を作り込むヒントにしたいと思い、今年の鈴鹿F1GPはレースそのものは去ることながら、鈴鹿を訪れる人々の観戦スタイルが見たくて、他のお客さんを注意深く観察していました。
自分が最後に鈴鹿にF1に来たのは6年前の2012年。
port Fのアカウントはすでに持ってましたが、ほぼ「一個人」として、ユルユルとつぶやいてた程度でした。
今回のような視点は一切持っていませんでしたから、他のお客さんからメディアとして学んだことはゼロです。
そして、6年の月日の間、ありがたいことにフォロワー数は増え、port Fはほんの少し認知されるようになり、自分自身もSNS上でモータースポーツファンがどんなことをやりとりしているのか、情報発信の傍ら日常的にモニターするようになりました。
「人はこんなニュースにRTするのか」
「みんなこのドライバーのことが好き/嫌いなんだな」
「こういう知識はみんなの頭の中に入ってるのね」
自分の中でデータが蓄積されました。
総じていうと「モータースポーツって趣味嗜好がそこそこ偏ってる人が見るもの」と。
今年のF1鈴鹿に訪れて、これが大きな間違い…いや、僕が「井の中の蛙」であることが、分かりました。
以下、2018年の日本GPで見た、そして自分の想像とかけ離れていた実在のお客さんについて、描写します。
パパとママ、小さな男の子、さらに小さな男の子の4人家族
この男の子2人は、ずっとグズりながらも、プラクティス、予選、決勝、どんなセッションでもいいから、とにかくベッテルがドライブするフェラーリが走るところを見ていたいらしい。
近くに座ったかなり年配のおじいちゃん
予選には現れず、レースも20周すぎに現れて、ドスッと座る。そしてただ静かにレースを眺める…
自分の隣に座った学生らしき男2人と女1人
この女性どうやら毎年鈴鹿に来ているらしい。アロンソが引退することは知っているが、来年ライコネンがザウバーに行くことを知らないようだ。男2人は初めてF1に来たらしい。女の子に「毎年来る理由わかったでしょ?」と言われている。
自分の前に座った少年とその父親
お弁当を食べながらレースを見る(そのお弁当はサーキットで買ったものではなくコンビニで買ったものだった)
レース中の順位の確認は、Yahoo! Japanのスポナビを見る。
自分の周りでF1公式ライブタイミングを見ている人が1人もいない
(普段、自宅の観戦のときは見ているのかもしれないが)
※このようなお客さんが間違っているというような意味ではありません。単純に、こういうお客さん像を僕が全く想像できていなかった、ということを言いたいだけです。
ミヤケが見ていた場所はヘアピン席です。つまり三日間で30000円以上する席です。
マニアでもない、うんちくをひたすら話しているでもない、毎日F1のニュースを追ってるわけでもない、そんな人が鈴鹿F1に30000円消費してくれるんだと思うと、嬉しくて、でも、そんな人の存在を考えたこともなかった自分が悔しくて、涙が出そうになりました。
自分がこれまで見てきたファン像が間違っていたわけではありません。
なぜなら、その方々も実在しているわけですし、その方々も正真正銘のF1ファンです。
F1を取り巻く外野情報ってF1レースの一部だよね、と思っていましたし、間違いではないと思いますが、F1を見る人を増やすということは、そういうことだけではないんだなと深く思いました。
「F1を楽しむ人の中には、感性で、五感で、F1を“感じている”人がいる。そんな人がものすごくたくさんいる」と。
そういう人たちに届くものとはなんだろう?そこが最初に挙げた「How」の一部になるような気がしています。
もし今後、自分がパドックやメディアセンターに気軽に往来できる未来がやって来たとしても、観客席からお客さんの目線で楽しむことを絶対に忘れてはいけないとも思いました。
「“深く隠されたところにあるF1の本質”は放っておいて、表面的なことしか描写しないぞ!」という宣言ではありません。
ただ、この鈴鹿のあとでport Fが「ファン」と呼ぶべき対象がすごく広がった、そういうことを言いたいのです。
このブログを書いていたら、また鈴鹿の風景が蘇ってきました。
書こうかどうか少し迷ったブログエントリーでしたが、書いてみてよかった。
これからもport Fの発する情報に、耳と目と、ときどき足をお借りできればと思っています。
とりとめないの締めになってしまいました。
それでは、また。